yd’s blog

ヤバイヤバイ、常にヤバい。頭が悪すぎて、まともな思考が働かない。

気分循環性障害、人の名前が覚えられない、会話が不自由、つまらない、笑えない。感情が死んでしまった。思ったことを綴っているだけ

今、私が孤独な人生を送っているわけ


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なぜ、いつも孤立してしまうのだろうか。

 

誰かが話しかけてくれることもない。

 

ずっと誰かに相談することも話し相手もいないままこの歳になってしまった。

 

なぜかいつも人を避けるようになっていた。

 

人の輪の中に入るのを避けていた。

 

ずっと昔、小、中、高と同じ学校だった同級生の結婚式の二次会に招待されたとき、

行くにいったが、誰かに何かを言われたわけでもないのに、その場にいるのが嫌でしょうがなくなり、その友人に挨拶することもなく途中で帰ってしまっことがあった。

 

自分は未だに、親と兄弟が憎くて死ねーという感情が湧いてくる。

 

俺がこうなったのはあの家庭で育ったせいだ、あの糞野郎どものせいだという感情がわいてくる。

 

自分でも自分を子供っぽい大人になれなかったのだと思う。

 

だれかと、話さねばならぬ場面では表面上、年相応のような態度で話してみるふりをしている。実は何もないただの薄っぺらな人間だとばれてしまう前に、挨拶程度のありきたりな会話しかかわすことができない。

 

茨城の田舎で育った。周りは田んぼばかりで何もないところ。高校生になって同級生が皆原付バイクを乗りだした。俺は親父がバイクに乗るのは許さないというふざけた理由で乗れなかった。だから高校に入って離れた町の友人と遊べなかった。彼女も作れず女の子とも遊べなかった。

 

男ばかり4人兄弟で部屋も一人部屋が持てず友達や彼女を呼んだりすることもできなかった。

今みたいに携帯やスマホなどなく、家族がいつもいるリビングにひとつ黒電話があるだけで、そこから女の子に電話なんてかけられなかった。

 

兄はヤンキーで弟は糞生意気になり兄弟が邪魔な存在でしかなかった。両親は共働きで、俺は反抗期で、兄になぞり、親とはほとんど口をきかなくなっていた。その頃何かを相談したり深く話を聞いてもらった記憶は一切ない。

 

父は元空手をやっていたバンカラで、堅物な人間だった。父も母も外面がよく、世間体を気にする人だった。

 

俺は中学のときはサッカー部で中学2年ぐらいから、そこそこモテだして、同級生や後輩の女の子にラブレターやチョコレートをもらったり卒業式に制服のボタンをあげたりした。

 

けれども、自分はむさ苦しい男兄弟の中で育ったため、女の子にどう接していいのか分からなかった。まともに話したりできなかった。未だに姉か妹がいたらよかったのにと思う。

 

高校に入学当初まではそこそこモテていたのだが、帰宅部になり、ちょっと突っ張った風でいたが、特に面白い奴でもなく、女の子に積極的話せないのを硬派を気取っている風に見せていただけで、背も止とまり、俺のモテ期も終了した。

 

部活はやらずに、ガソリンスタンドや大型スーパーの野菜売り場でアルバイトをした。バイクも乗らず、誰かと遊ぶでもなく高校2年ぐらいから孤立するようになった。

学校が終わると電車に乗って、東京に行った。東京に漠然とした憧れがあった。

 

喧嘩が強くなりたくて、骨法という格闘技の本やビデオをみて堀部正史という骨法の師範に憧れて、道場を見に一人でわざわざ片道1時間半以上かけて東中野まで行ってみたりした。

 

アルバイトで稼いだお金は、スイミングやボクシングジムに行ってみたりもしたが、頭が良くなるという電気刺激や速読講座などにつかった。

一人でこそこそ誰にもいわずなんて暗いことをしていたのだろうか。

 

高校は赤点だらけで、卒業できるか留年するかの瀬戸際で最後の追試でなんとか卒業できた。

 

高校卒業間近だというのに校則違反のズボンを買ってはいた。同じクラスの不良っぽい奴から、それ買ったの??という目でみられた。

 

その頃からもう自分の世界に閉じこもり、自分が今何をやっているのかわからなくなっていたのだと今にして思う。

 

両親は共働きで、要領のいい2個下の弟はよく、遅刻して学校にいっていた。俺も遅刻は日常茶飯事になっていた。学校で勉強するとオタッキーといわれバカにされるような環境だった。

 

家に帰っても父親は仕事から帰るとテレビばかり見る人でテレビの音がうるさくて集中して勉強ができるような環境ではなかった。

 

父親は酔うと顔を真っ赤にしてよく理不尽に怒られた。